能登あってこそ | 能登で働く

能登あってこそ

会社名:和倉温泉 多田屋
  • 令和6年能登半島地震
  • 復興

休業で見つめる自らの存在意義

我が身より先に、他人の身を案じる人たちがいる。2024年1月1日午後。七尾市和倉温泉の旅館「多田屋」では、大きな揺れが収まった頃合いを見て、スタッフがそれぞれの持ち場で110人もの宿泊客を必死に館外へ誘導した。

旅行客は土地勘がなく、館内の通路にも詳しくない。そのため、宿泊中の安全は旅館側が守るほかない。震度7や6強の揺れに慣れているスタッフなんていないが、そこに「想定外」という言い訳はなく、有事にあってなお「お客さま第一」の原則は貫かれた。

避難にかかった時間は、わずか10分。統括部長を務める宮田清孝さんは、動揺と不安の中、躊躇なく行動した同僚たちを誇らしげに眺めていた。

【あの日】 正月ムードが一変

 元日の朝7時、多田屋では私を含む幹部社員が連れだって初詣に行った。館内は満室。恒例のもちつきイベントを催し、いかにもお正月というムードが流れていた。

 しかし、和やかな雰囲気は一変した。穴水町出身の私は2007年の能登半島地震も経験していたが、今回は比較にならないほど規模が大きいと感じた。辺りの地面は隆起し、多田屋は建物の配管が損傷していた。その様子から「少なくとも半年は営業できないだろうな…」と直感した。

 2カ月がたった今、和倉にある旅館は全て休業を余儀なくされている(*)。いずれも建物の被害が激しく、温泉も多くの旅館には届いていないため、営業の再開時期は見通せない。そもそも、各旅館をどうするかという話の前に、温泉街として復活できるのか、どんな形で復興できるのかという根本的な部分から考えざるを得ない状況となっている。

 *一部の旅館は復旧工事の関係者に限って宿泊場所を提供している。

地域に支えられた旅館

もともと観光業の特徴は裾野の広さにある。旅館は泊まってもらってはじめて価値を提供でき、ようやく川下の業種にも仕事が回っていく。その宿泊客は旅館だけでなくドライブや観光地巡り、体験、グルメなどを楽しみに旅行に来る。つまり、旅館は単体で存在しているのではなく、地域全体に支えられて営業しているということだ。

とりわけ和倉温泉は奥能登への入り口にあるので「奥能登あっての多田屋」という意識が強い。奥能登に魅力があるから今日の多田屋があり、だから多田屋は奥能登を大切に思う。これから先、心から「また和倉温泉へ泊まりに来て」と言えるためには、旅館の建物がきれいに整うだけでは足りない。能登が魅力あるエリアとして観光客を受け入れられる状況に戻ることが前提になってくる。

この休業中、スタッフ各自は能登という広い地域内での自らの存在意義を見つめ直し、能登の復興に向け、どのように貢献できるか頭を悩ませている。こうして考え、実行するプロセスの効果は、いずれ営業が再開できた時、各スタッフが自分の言葉で地域の魅力を伝えるという形で跳ね返ってくるだろう。今回の被災を前向きに捉えるなら「地域の中の旅館」「その旅館で働く自分」の在り方を見つめ直す機会になると思う。

【これから】 価値観の変化を味方に

いま議論されているまちづくりや地域づくりは、10年、20年先にようやく具体化する内容も含む。最終的に決定するのは年配の方々になるのだろうが、これだけ長いスパンで地域の方向性を考えるなら、若い世代もどんどん参画すべきだ。

能登では「田舎は不便だから」と都市部へ出ていく若者が多かった。でも、近年は価値観が変わってきたと感じる。通信技術の進歩により、今は地方にいても都市部と同じように働ける環境ができた。地方ならではの仕事をつくれる人材も流入し始めている。過去の積み重ねの上に、域外の知恵や力も借りながら、再び訪れたくなる能登を築きたい。

「元通り」を超えて

穏やかな海、のどかな田園風景、豊かな食文化。不意に奪われた日常風景は、人々の心に感傷的な気持ちを呼び起こす。しかし、過去を懐かしんでばかりいてもいられない。宮田さんは「あえて言うと、元通りにすれば全てが解決するわけじゃない」と語る。

震災前、すでに無数の地域課題があった。復興の象徴のように扱われているキリコ祭りだって、どうにかキリコを組み上げても担ぐ若者がいない集落は少なくなかった。魅力的な地域として永続するには従来の能登らしさを残しながら、過去からの課題、地震による新たな課題にも取り組まなければならない。

見たくないものを見るには勇気が要る。でも、今の能登には、難局にあって自らの在り方を見つめ直し、行動する人たちがいる。彼らがいる限り「能登らしさ」は失われるどころか、より深く、強くなる。

そんな能登に惹かれ、再びたくさんの旅人が来訪する時、きっと多田屋は心からの笑顔で旅人を迎え入れてくれるだろう。

(聞き手は国分紀芳。インタビューは2024年2月末に行いました)

TADAYA若女将noteにて、「能登半島地震における旅館の記録」を発信していますので、ぜひご覧ください。

一人ひとりの働きかけで、能登の未来をつくる

2024年1月1日の大地震によって、能登半島全体が今、様々な局面を迎えています。
地震以前から少子高齢化や過疎により“25年先の日本の姿”と言われてきた「能登」は今、世界における課題先進地となりました。失ったものは多く、そのどれもがかけがえのなかったものたちばかりですが、「今できること」と「新しく生まれるものや出会い」に希望を傾けながら、新しい能登半島に向けて、復興を進めていきたいと思っています。

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